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カラスになった気持ちで柿を見ると歴史が見える

雪国長岡が雪に閉ざされるのは12月~3月上旬まで。現代は「閉ざされる」という時代ではないが、雪に閉ざされてきた時代の食文化が伝統野菜を培ってきたことに間違いはない。冬の保存食が伝統食になったともいえる。漬物としてのナスはその代表である。

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冬のビタミン補給は何か?我家には代々と梅・柿など保存用の果樹が植えられてきた。柿は干し柿とすれば2年は持つし、梅は何年でも保存できる。冬場の食材として重要なもののひとつです。昨年、柿の枝剪定をし過ぎたためになのか、今年の気候のせいなのか梅も柿も実付きが非常に悪かった。画像は12月初めに倉庫屋上から見下ろして撮影した。カラスやハクビシンの気持ちになれる。地上から見上げるばかりではわからない世界があった。この柿の木は6代目(父)が植えたものであり、かつて同じ場所には、5代目(祖父)が植えた杏の木があった。落ち葉は集めて腐葉土として再利用する。百姓と農家の違いのひとつでもある。

雪国の天気と百姓

11月に入って風邪で寝込む日がトータル1週間以上ありました。直りかけで畑仕事を繰り返したので悪くなる…の繰り返しでしたが、数日前から咳とダルさは消えました。天気の良い日は畑に出たいですが、芋類の貯蔵庫を兼ねた作業場の暖房に薪の調達をするために連日流木の伐採作業と薪割り作業です。

昨日12月9日の午後2時頃です。

子供の頃、この場所は川原石がごろごろしていました。俺が生まれるずっと以前から信濃川の氾濫で、川の下になったり川原になったり土がついて畑になったりを繰り返していたそうです。このソフトボール場は中島の百姓で元市会議員の故・渡邊綱吉さんが「地区の人達にスポーツして欲しいから」と寄付した場所です。

上流の大手大橋

逆光ですが冬の低い太陽光線が川面にキラキラ反射する光景は、目から暖かさを感じます。野菜もそうですが植物が話すことができたら、太陽を浴びている時の感じは俺と同じことを言うかもしれません。

鮎や鮭が遡上する大河のすぐそばで生きることができる幸せ。

父母が若く、俺が4歳頃まで木の川船で対岸の畑まで行き来していました。現在もその船の櫂が残っています。大昔、この川が流通の要でした。

橋の向こうに米山が見えます。

ガスや石炭・電気が一般的に普及するまでは、この風景を見ながら流木集めをする庶民が大勢いたそうです。この信濃川の氾濫があったから巾着ナスと梨ナスが中島で生産されるようになり、長岡全体に広がったのです。

あまりに遅いトウ菜の発芽

 

種まきゴンベエのロータリーディスク播種の深さ設定を誤って1センチ深くしたため、大幅に発芽がおくれてしまった。来春の収獲は?である。

お昼の信濃川河川敷で4頭の馬を発見。動物園などで見た日本馬と違って大きくてスマートだ。

本日は長岡時代祭りなので、三条市から武者行列に参加する馬が信濃川河川敷に到着していた。係りの人にお願いして撮影させてもらった。55歳の俺には、白馬といえば「怪傑ライオン丸」時代劇ブームの頃の子供向け特撮変身時代劇である。変身忍者嵐、仮面の忍者赤影、そのほかにも大人の見る時代劇も主人公は何故か白馬に跨っていることが多い。そのせいではないが、50歳以上の男子は白色系の車を選ぶ人が多い。 長岡陸上競技場の駐車場が白色系の乗用車で満車になっている時は、必ずゲートボール大会が競技場で行われている。

猿回しをやっていた。釣りの時に、集団でやって来る野性猿に遭遇したがアレは恐ろしい。

枝豆と里芋の収獲出荷を終わらせ、3時過ぎに時代祭りを見に行くと、人垣があるので隙間から覗いたら猿回しをやっていた。

4時頃には雨が降り出す。米何俵の御輿?

来年は戊辰戦争から150年とのことらしい。我家の敷地で戊辰戦争、長岡の戦いが始まった。その石碑「西軍上陸の地」は昔、我家の土地であった。我家の3代目は小銃隊の小頭で第二次長州征伐で大阪まで遠征し、長岡戦争の開戦から終戦まで、会津・米沢と転戦して生き残った。しかし、戦時中に2代目の妻(老人)が他界している。民間人も武士の家族も会津や米沢まで逃げたといい、その道中に亡くなった者は多いという。

錦の御旗に菊御紋はありません。ただの丸い金色布でした。

武者行列で坂本竜馬が出たり、新撰組が出たりするのはご愛嬌だろうが、坂本竜馬役が歩く姿を見た20代らしき女性が「本物っぽい」と言っていた。何故か新撰組局長が女性だったりする。リアルさを求めてはいけない、祭りなのだから。

大正14年頃のナスの呼び方

長岡市で唯一の百姓の売り掛け帳であるはず。ナスの呼び方。

大正14年、8月の売り掛け帳である。丸に漢数字の十が書かれているのは「まるじゅう商店」のロゴ。祖父、眞十郎は野菜百姓だけでは生きて行けなかったので苗や酒・味醂・野菜・漬物・味噌・農業用品などヨロズ屋的な店を開いて兼業百姓であった。この時代には梨ナスは導入されていない。大・中・小のナスで区別していた。二冊の売り掛け帳が存在するが、通しで見て、品種明記はない。大ナスは中島巾着であろう(丸ナスと呼称するようになったのは後年からか…)。小ナス・中ナスというのは、中手(中生・なかて)と云われる長岡では、江戸時代から栽培されていたナスのことであるのは確実。なかてナスは現在も中島巾着や長岡巾着ナスを栽培していると1本の木すべてに中長(卵形)のナスが成るが、これが江戸時代のナスであると父親や中島の先輩百姓から教わった。 味噌漬ナスは日付から生ナスの可能性も否めないが、我家では自家製味噌を製造販売していたので長期保存の中島巾着の味噌漬ナスである可能性が高い。なお、この味噌樽と豆挽き(煮・蒸大豆を磨り潰す機械)は倉庫に現存している。

本日の作業は梨ナス収獲・トウ菜の畝割り。畝割りとは畝巾と畝間の線引き作業のこと。

釣り用リールに水引糸を巻く。一定間隔で直線畝を立てるために糸を張り、糸の上を歩いて足跡の上をトラクターで畝立てする。

温床づくり。外は雪。

長岡市での温床作りの歴史は、俺の住む中島(なかじま)地区が発祥であると伝わっている。長岡市の郷土史に中島の温床の記録が記載されている。 6代目の父親は、古畳を温床枠に利用していた。畑に苗出し後はそれを堆肥化して培土として使っていた。

畳の切断は労力を必要とするので、今年からはスタイロフォームを使用。

昔は高価で一般入手が大変だった厚手の断熱材も5センチ厚程度なら近隣のホームセンターで一枚1500円。45センチ巾に切断するのもカッターで済む。スタイロは傷付き易く割れやすいのでビニールマルチで覆ってある。通路側には外壁材を防護板として廃品利用。

下地材として、昨年使った籾殻と畳をばらしたワラ・土を敷く。

僅か2ヶ月の育苗に結構な労力を必要とする。昔の百姓は残飯などを集めて発酵させたものを熱源として利用していた。無駄の無いリサイクルがなされていた。今ではビニール・ガラス・樹脂などを使用するが、昔は和紙に油や柿渋を塗った物を使って保温していたのだ。その実際を知る世代もあと数年でいなくなってしまうだろう。地域農業の歴史を記録するのも大事なことなのである。農業知識を持たない者ではその役目を果たすことはできない。

稲荷信仰と百姓

今年の初午は2月12日の日曜日です。 百姓の我家では昔から稲荷さんを祀っていますので毎年の初午では5色の旗を立てて御祭りしています。子供の頃は農業の神様として我家は稲荷を祀っているのだと思っていましたが、祭事理由は他にもあるのです。

この五色旗は2年位前まで町内の文房具店で売っていたのですが、もう販売しなくなりました。それまで五色旗は文房具店の方が紙を仕入れて切って貼って旗を作っていたとのことでした。旗を吊るすススキの棒(長岡では「オギン棒」と言います)を刈り取って納入する業者もいなくなったといいます。 いずれこのような風習が廃れていくとしたら…「5色旗を自分で作ろう!」と決断。

長岡市の大きな仏具店に五色紙の取り扱いの問い合わせをしましたが「取り扱っていません。去年も神社から同じ問い合わせがありました。」とのことでした。大型文具店でも取り扱っていないとのことでした。やっぱり自分で探して作るしかありません。

5色旗の紙をネットで探すと、アマゾンで販売していました。でも専門店の専用紙が欲しかったので探し出しました。三重県伊勢市の中野紙店さんです。 電話で問い合わせてファックスで注文しました。入金連絡・発送連絡までしてくれて安心。振込み翌日に到着の迅速さ。手書きの挨拶状まで入っていて心が温かくなりました。

早速開封して作業開始。さすが専用紙です色がきれいです。

各100枚 緑黄赤白紫

習字用の紙とは若干違って丈夫そうなので、雨や雪で解けたように切れることは少ないと思います。 そういえば、地元の文房具屋さんは昔、色のついた大洋紙(模造紙)を使っていたこともありました。長岡の初午時期は雪雨にさらされるので文房具屋さんの知恵だったのだと思います。大洋紙とは新潟県特有の呼び方との説があります。

1枚ずつ計5枚を重ねます。この5枚1セットの色紙から4旗分取ります。

この色紙にも裏表があるので全ての紙の面を揃えて、旗の色順に重ねていきます。

裁断機で4分割します

1セット(1旗分)5枚ですが、一度に2セットずつ合計10枚ずつ切断します。シューッと裁断できるので楽しい。ハサミでは疲れます。

本日は時間の関係でカットのみでした。順番どおりに糊で貼り付けるのは明日以降です。

90年前の種苗カタログ

京都のタキイ種苗のカタログ

画像は、大正16年のタキイ種苗のカタログです。平成26年8月に俺が単身京都のタキイ本社へ行った時に、「現存する古いカタログがあったら、茄子の箇所だけコピーして送ってほしい」旨をお願いして、後日に郵送してもらったものです。

タキイ本社に現存する古いカタログは少なく、探してもらいましたが10年分ありませんでした。大正16年という元号は存在していませんので、実質、昭和元年度用のカタログということになります。

ここに「巾着茄」の名前が存在していますが、挿絵がないのでどのような巾着茄なのかは説明文から想像しなくてはなりません。「巾着茄」といっても、梨ナスも巾着茄の範疇とされていますので京都発の、このカタログから中島巾着との関連性を求めるのは難しいと思います。

図書館やネットで検索するだけでなく、その情報が何処の誰が情報源であるか直接確認する作業によって真偽と事実の一端が見えてきますし、文字や画像だけではない真実やヒントまでも入手できることがあります。それが自信につながってきます。長岡の巾着ナスと梨ナスにかけては誰にも絶対に負けない知識と経験を持っているのは、これらのことをやってきたからです。

 

新潟の野菜を語る重要文書

百姓は野菜を売ってもその販売記録を残すことはあまりない。しかし、我家には野菜販売の売掛帳が現存しています。おそらく、長岡市に於いて百姓が書き残した唯一の販売記録だと思います。 長岡は戦災によって民間の資料がほとんど残っていません。

大正14年の前後3年間の記録が記されています。

貴重な資料であることを認められて内容が撮影され、新潟大学などで講義資料として使われています。

一例として、当時の茄子に関しての品種・呼称名称の区分けが判る非常に重要な記録もあります。

「まるじゅう商店」として農業の傍らで商いを営んでいました。

野菜専業農家ばかりの中島地区では、所有田畑の多少によって商いをしなければ生活できなかった小作農もいました。我家がそれです。長岡の畑作農業の第一級の重要資料だと自負しています。

扱い品目は多岐であり、酒類・味噌・野菜・苗など雑貨店のようなものから、馬や請負などまで記録がありました。

昭和2年の売掛帳も現存していた。

雪大根という文字も残っています。日付と当時の気象記録・積雪量を照らし合わせれば、本来の雪大根が雪中から掘り出したものか、雪中保存したものなのかが判明するのです。

伝統とは

伝統芸能・伝統行事・伝統文化・伝統工芸など「伝統」を冠するものは多数で多岐にわたって存在します。 「伝統」を広辞苑で牽くと次のように解説されていました。

ある民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い、伝えてきた信仰・風習・制度・思想・学問・芸術など。特にそれらの中心をなす精神的在り方。とあります。

宗教に関して言えば「伝統宗教」と聞いたことはありません。ある信仰者が「自身の解釈が正しい」として、それまで信仰していた宗教を別解釈した時に、名前を変えて新しい宗派を興すことはありました。

「伝統野菜」の伝統とは何でしょう。国で定めた規定はありません。京都や大阪では府単位で概ね100年以上で来歴がハッキリとしている野菜を伝統野菜としているようです。平成26年8月に大阪府(なにわ伝統野菜の発起人の農学博士)・京都府(京都府庁ブランド戦略課)を訪ねて直接話を聞いてきました。 それぞれに各分野の専門家が携わっており確固たる地盤を築いてきたことが理解できました。 長岡市のように青果市場という一企業が、会社としての生き残りをかけて作ったブランド化とは比べ物にならない内容でした。

伝統野菜なのに「改名しました。」と平気で宣言する長岡ブランド協会。

伝統野菜とは関係性のない地域の農家が先頭に立って平気で間違いを宣伝する「巾着ナス」

長岡の伝統野菜について、子供たちが学校で間違ったことを覚えている現実を見てほしい。

米百俵の精神は廃れてきたのではないだろうか。

伝統を冠するならば、伝統を培ってきた地域の人間が先頭に立つべきであり、知識の不足した人間が先頭に立つのは間違いの元です。

歴史遺産の土産

 

世界遺産の土産だそうです。明治維新後に各地で養蚕事業が開始されました。有名な所では観光に力を入れていますが、これもそのひとつ。 チョコレートですが、葉っぱは抹茶チョコ。繭や幼虫はホワイトチョコレートの中に工夫を凝らしたチップを入れてありました。成虫はホワイトチョコレートのみ。

見た目のインパクトはピカイチだと思います。

長岡には「雪にお(雪しか)」という大きな雪山を作る場所が3箇所ありました。そのひとつが中島地区でした。俺の父親も若い頃に、背中に背負子を背負って雪を運んだらしいです。この雪にお(雪しか)は明治時代から盛んになった養蚕事業のためのものです。 カイコの卵の保存と、孵化時期を何回かに分けるための低温処理のためのものだったのです。

雪国の負の部分を利点として生かす、非常に賢い方法だったのです。この「雪にお」は氷の代用品として解熱用に使われたりもしました。俺の祖母はツツガムシ病で高熱になった時、この「雪にお」のお陰で命拾いしたそうです。

昭和初期の写真。雪を担いで巨大な雪山(ゆきにお)を築いていく。すべて人力である。

地域の歴史を調べると、今が見えてくるのです。このような目立たない隠れた歴史の何にこそ真実があり、庶民の暮らしがみえてくると思うのです。金儲けに走ると嘘と圧力と権力に媚びへつらうばかりの卑しい団体ばかりが横行してきます。行政はそういう者達が大好きです。 でも俺はそういうものが大嫌いです。