巾着ナスの歴史は中島農家と信濃川の歴史  中島農家が伝統をつくり守ってきた


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「にいがたの園芸」昭和62年11月(1987) 著者/瀬古龍雄(新潟県野菜研究の第一人者)

●新潟県長岡市における巾着茄子の本当の名前は「中島巾着ナス」です。●
長岡で最初に栽培を始めたのが中島地区。100年以上前から栽培を続ける中島農家や中島の住人は「丸ナス」と呼びます。地元スーパーや市外に出た人は「長岡なす」と呼ぶ人が多いです。
平成15年4月長岡野菜ブランド協会が発会した後から、「中島巾着茄子」を「長岡巾着ナス」に改名したとあちこちで見かけるようになりました。 歴史ある伝統野菜であるのに改名するというのもおかしなことです。そして、巾着ナスの歴史と性質を一番知っている中島の農家は誰一人、表舞台で真実を語る機会を得ることは皆無でした。

中島農家の先人から伝え聞いた話を元に、6年間検証を重ねて来たことを、このホームページに順次掲載していきます。                                                        在来種である巾着ナスを「原種」と考えている人もいるようです。実際に我家の畑において原種か在来種か?を数年間に渡って種の性質を追った実証試験もしています。信濃川河川敷畑において「水を与えずに育てる」とどうなるかという検証も行ってきたので結果の画像も撮りました。
巾着ナスを100年以上栽培して来た中島の百姓がいるのにもかかわらず、一度たりとも表に出ることができなかった理由は一体何故か…(数年前まで、長岡で巾着ナスを最初に栽培した中島農家の小川文四郎さんの子孫も健在で農業をしていたのに取り上げられることはありませんでした。)・・・長岡の伝統野菜といえば、必ず同じ人物ばかりがマスコミに紹介されているのもおかしなことだと思います。

伝統野菜とは何か、を少しでも考えていただければと思います。

信濃川の歴史と長岡の農業の歴史は表裏一体です。中島の野菜が歴史ある伝統になったことも信濃川の歴史に深く関係しています。
「信濃川の洪水の歴史」の第一人者である、今井雄介先生に数回に渡って教えていただいた内容を中島の百姓の視点から見て、簡単に書きます。後に時間ができたらもっと詳細な記事と記録資料を載せるつもりです。
 長岡市を南北に流れる信濃川の東岸(右岸)に中島地区があります。中島という地名がいつころ付いたのかは調査中ですが少なくとも文政十亥年(1827)当時、現在の中島地区は「寺島」としての地籍名でした。我家の初代が建立した墓が現在も敷地にあります。現在、中島地区において敷地内に墓があるのは我家だけかもしれません。(他にあるか市役所に問い合わせましたが不明とのことです)

我家周辺の中島地区の元農家(歴史のある家)のほとんどの菩提寺は信濃川の西(川西地区)であることから、中島の古くからの住人の先祖は信濃川の西側地区から来たということでしょう。右下写真:墓碑に刻まれた文字に「寺島」の文字があります。現在、長岡市の「寺島」は信濃川の西岸にその地名があります。

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文政十亥年(1827)平成27年より188年前、自分が7代目なので土田家は中島の地に200年以上…1世代約30~35年として
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文政十亥年建立 この当時、現在の中島地区は寺島の地籍であり、向こう寺島と呼ばれた。 この墓には北越戊辰戦争発端の地の証として薩長軍の撃った弾痕が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上記、文政時代から約150年さかのぼること延宝時代(1673~1681)現在の中島地区は長岡藩の馬草刈場として長岡藩に土地を召し上げられており(取り上げられた)、元々この中島(寺島)の地に居住していた人々は信濃川の西岸などを転々流浪するような貧しい生活をしていたといいます。当時の古地図には(現在の中島)3 軒の家が信濃川本流筋に描かれていますが実数は違うと思われます。
人々は約3年に一度の信濃川の洪水に家財や田畑作物・家族を流され風土病のツツガムシ病(高熱で死亡率50%)に命を奪われながら自分達の土地 (現在の中島地区は「向こう寺島」と呼ばれていた) を返してくれるように長年に渡って長岡藩に嘆願したといいます。
後に長岡藩から土地が返されたことにより荒地を開墾し巨木や大石を取り除き、粗末ながらも家を建て本来の土地でようやく生きることが約束されました。 しかし日本一の大河信濃川の洪水やツツガムシ病と貧困から逃れることはできませんでした。

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延宝時代の古地図。 青ペン先に家。信濃川と古川(現在の柿川)の間に「向こう寺島」(現在の中島)。左下多重太線は長岡城。 「古川島」という呼び名の畑も中島地区(現在の水道町)に残っている

この中島が新開地として藩から返された後、あちこちから中島に人が移り住みました。(数ヶ村から移住した村名の記録あり)
江戸末期までの中島地区での主な農業は開墾した農地は少なくても、稲作が中心であったといいます。(武士の禄高や領地を石高で表し、年貢を米で納めるのが当然の時代です。)巨木・流木・大石・を取り除き、新田開発および開墾を10年近くの歳月をかけて行われました。当然のことながら人力が主です。

新田に水を引くために上流から用水路を数キロメートルも手堀りし(現在も一部現存する)中島まで稲作のための水を引きました。そして信濃川から現在の柿川まで川幅11メートル、流程1.1キロメートル以上の新川を掘削(旧日赤病院・現在のウオロク長岡店の裏の道が昔の新川)しました。新田や用水など稲作に必要な整備が安政4年に完成。田への作付けという段階の安政5年に信濃川の大洪水により新開地(中島)へ大量の瓦礫土砂が流入。田としての機能が果たせず、中島の農民は食も収入も途絶えるほどの打撃を被ったため、生きる手段として埋もれた田を畑として使う以外に道がなく、畑作中心の農業に転換せざるを得なくなったのです。
この時から生きるための、まさしく必死の、畑作転換のために畑作技術の発達と種の確保保存・販売戦略(6次産業化の走り)・情報収集が中島農家によって行われるようになったのです。
安政5年の信濃川大洪水が長岡の野菜栽培を進歩させ伝統野菜を生み出す、中島菜圃の形成要因となったのは中島の百姓の子孫としては悲しい皮肉としか思えません。

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平常水位より約6メートル増水した日本一の大河信濃川。堤防が低ければ市内は洪水になる。急な増水で重機は移動できずに水没。信濃川は洪水を繰り返してきた。2013.9.15.16pmこの汚濁流により我家のナスは出荷せず全廃棄した。

江戸期は低い堤防が中島の我家裏手まであったのみ。春先の雨と雪解け水で洪水になることも度々あった。梅雨末期の洪水、秋の長雨による洪水など中島の百姓は信濃川に怯えながらも、洪水によって運ばれる肥沃な泥土によって良質な蔬菜を栽培することができた。
流木は調理・風呂・冬期の暖のための薪として貴重な燃料として活用し、流れ着いた葦や草などは一箇所に集めて堆肥化して利用した。祖父で5代目土田真十郎の1962年の日記に「流れ着いた流木を製材したところ相当な価値があり、喜んだ」という記録が残っている。信濃川は恐ろしくもあり様々な恵みをも与えてくれるのである。

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上写真の翌日、畑に通じる農道は流木と土砂で1メートル以上の高さまで埋もれた。右岸の畑まで200メートルがこの惨状。畑も土砂で15センチ~40センチの泥で埋まり壊滅。こんなことは信濃川では昔から当然のことだが、収入が絶たれる。
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瓦礫を片付け、泥の高さは40センチの所もあった。全てを片付けるまで2ヶ月以上。

江戸期の土手は低く、上流部から続く信濃川の土手は土田家の裏手で途切れていたという。そのために度重なる出水に中島農家の田畑も民家も度々被害を受けた。このことから、多品種多品目栽培でリスク分散をすることが必要になる。水害に強い野菜や地域特性に見合った野菜の発掘と調理保存方法の開発なども必要となる。長期栽培の野菜を主品目にするのは水害を考えると収入面から危険である。様々な野菜の種と栽培技術を得る必要も出てくる。その種や栽培の情報は、信濃川を通じて得ていたはずである。
江戸時代、中島地区の下流部に位置する蔵王には、新潟港から北前船の積荷を積載した帆船が上ってきていた。途中の川港でも様々な人や積荷を積み下ろし、そして情報も荷物も人も長岡に運ばれた。
戊辰戦争前後の中島地域の農業関連の資料や情報が、どうしても入手できない。戦争による焼失を含め、武士階級から民衆まで、よほどの混乱だったのだろう。
我家に戊辰戦争の頃の農業関連資料は残念ながら無い。世相が混乱しはじめた時代で、足軽百姓の我家にとって命に係わる一大事の頃であり、武士階級に関連するものしか残っていない。キナ臭い時代なので信濃川を行き来、渡河する人や物に対しての警戒に、我が先祖はそれに当らされて忙しく、記録を残す暇がなかったのか。

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慶応年間の長岡中心部。ペン先が中島の土田家付近「西軍上陸の地」になる。信濃川は地図上方向に流れている。左中央に新川の名前もある。
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画像の下⑪は幕末の長岡の野菜事情を知る貴重な資料

上画像の下段⑪の文書は、平成24年8月に長岡市文書資料室の田中氏より提供していただいたものですが、土田が書き込みをしています。
この文書についての説明は拡大して読んでください。
この文書は、慶応4年に火災で建て直した家の襖の下張りから発見されたものだそうです。慶応4年(1868)は明治1年(1868)で同年ですが、戊辰戦争の年の文書とは言い切れません。ここに「なす」を納めるように命令が書かれているのですが、日付が8月(26日?)と書かれています。旧暦であり閏年の場合は新暦に置き換えるにはハッキリとした年号が必要、この文書には書かれていない。(新暦は1872年、明治5年から)
この時代のナス・ナンバンは温床育苗していたとは考えられないことからナス(中生)の収穫は7月中旬~下旬頃と推測される。
江戸時代の野菜は各地域の藩の特産品として「種と苗の藩外持ち出し禁止」の場合が多く、栽培技術や加工貯蔵技術も同様に他言無用のはずである。
明治40年代の農業試験場栽培記録でもナスの播種日は4月17日である。この幕末期の長岡のナスは「なかて・中手・中生」だったと確信している…時機をみて理由を公開する。

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幕末期の中島農家の記録がない理由が上記。著者の細貝さんは地元中島校区の歴史研究家であり、7代目土田の同級生の父上である。
幕末期頃の土田家では次々と不幸が続いており、記録を残すゆとりがなかったことが繰越位牌の年号で判明した。
繰り返しになるが、中島では戊辰戦争で焼け残ったのは数軒、昭和20年の空襲で焼失を免れたのも数軒だった。2つの戦争を免れて江戸期からの歴史資料が残ったのは中島では土田家だけであろう。たとえ2つの戦争を免れても家の建替えで貴重な歴史資料の価値を知らずに処分する人は多い。

明治以降の中島の農業が長岡の農業革命を起こし「巾着茄子」の歴史が始まる。

明治維新後、商人や農民の旧藩外への行き来が自由になった。このことにより、情報や流通は江戸期時代とは比べ物にならないくらい増えた。信濃川が流通の主要幹線であったので、長岡~新潟港を多数の船が行き来していた。長岡の終着点が中島地区最北端の蔵王様。柿川(内川)の出払い付近である。帆船や汽船が新潟港から長岡まで様々な積荷と人と情報をここで降ろした。中島地区に新鮮な情報が入るのは当然のことであり、稲作収入の微小な中島地区の住人にしてみれば収入増に繋がる情報は、喉から手が出るほどに欲していたはずである。
その成果ともいえる記録がある。

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明治11年、明治天皇に紹介された野菜栽培先進地「中島さいほ」

長岡の絵師が描いた明治11年の中島地区。当時の様子がデフォルメ(強調)されているが、地元中島や上田町・渡里町・表町などの住人であれば柿川の、どのあたりから見た風景か判る。
手前は柿川、奥の山には弥彦山、角田山、小木ノ城が描かれている。信濃川には、帆掛舟が確認できる。畑中央の大きな建物は、中島地区の大正10年生まれの方の証言から「織物工場」でないかと思われる。この方は長岡で巾着茄子を最初に栽培した小川文四郎氏の初孫にあたる。農民は素足に脚絆、山笠。 平成28年8月追記:絵の中央に大きな建物があるが養蚕の施設であるという事実が今井雄介先生の話で判明した。養蚕場の裏手に白い雪山『雪にょう・雪にお』または『ゆきしか』が描かれており、これは絹を出す蚕を時期をずらして数回に分散して孵化させるためのものです。下画像の女工場養蚕である。

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長岡の桜の名所「悠久山」と並ぶ「中島菜圃」明治11年

続く・・・ ★2016年4月末現在、明治中期~昭和前半までの巾着茄子に関する歴史資料を大量に整理中。 時期を見て公開します。