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新潟の伝統野菜・伝統果樹

伝統を語り伝えるには長年の専門知識と農業人としての現場を経験した者でなければなりません。新潟県において現在一番の知識と経験がある小田切さん。新潟市農業活性化センターで講演を聞いてきました。人材と施設がある新潟市がとても羨ましく思えました。長岡とは真逆です。

新潟県の在来野菜を調査し、全国に紹介した瀬古龍雄さんの直属の部下であった小田切さん。

瀬古さん小田切さん(県園研職員も含む)は百姓と同じように鍬を振るい草を取りながら新潟県の農家のために野菜や果樹の研究栽培育種保存をされてきたので、嘘や誤魔化しお世辞は通用しません。経験と実践に基づいた研究者ですから「最近の基礎知識が欠けてる、売るがためのブランド化」の裏側を非常に憂慮されています。

レジメには実際に自身で栽培してきた研究記録とともに採種など実際の現場が写真と共に解説されています。

「伝統」とは何か?を、たまに畑に行っただけで得意気にブログなどで宣伝し鍬すらまともに振った事も無い青果市場関係者や40代以下の青果仲買人・飲食店主(野菜ソムリエ)が伝統を得意気に語っている長岡市の現状を考えると赤ん坊(長岡)と大学生(新潟)ほどの差を感じるのでした。

 

 

平成の水飲み百姓(拝啓長岡市様)

時代劇に出てくる貧しい百姓は定番です。凶作のうえに厳しい年貢の取立て、代官所のお侍様は容赦ない言葉で鞭打つ。百姓達の脛は筋張り頬はコケ、ほつれて破けた懐から窪んだあばら骨がのぞき見え、心臓の脈打つ動きすら乾いた皮に伝わるのが判る。やせ細り飢えてふらつき鍬すら振るえずただヘタリ込んでいるか、虚ろな目をして横たわり空腹を耐えるために水だけを啜り飲む…哀れな姿。

長岡野菜ブランド協会設立の平成15年以降、ナスの価格は暴落状態が続いていた。

「私が売りますから。みなさんナスを作ってください」と協会発足式で大見得を切った会長、集まった農家は満室状態で200人を遥かに超えていたが…「売り先を確保してから生産を増やすべき」の一人の百姓の声は会長に一蹴された。

そしてその夏からナス1個が1円、2円である。出荷用ダンボール箱は50円。こんな状態が連日、何年も続いたのである。我が父親達は青果市場に出荷せざるを得ない弱い立場であるのでただ耐えていた。その上に会長の逆鱗に触れた発言者の地区の百姓はこれでもか!というほどに叩かれ続けているのである。発言者は俺であった。

無策のブランド化が招いた悲劇である。これを見たら後継者は消えて当たり前。平成の水飲み百姓が大量に増産された記録の一部である。

後継者不足の原因を後押ししていた市役所農政課にこの話をするとニヤニヤ笑っていただけである。そして現在も今後もそれは続き新規就農者養成・異業からの種参入企業に途方も無い税金と人力が投入され続けている。矛盾というものである。百姓の跡取りへの養成支援は皆無である。

優雅な白鳥も実は…

南の空へ飛ぶ白鳥。午後4時半頃

信濃川の上空です。命を育む信濃川。俺は信濃川が大好きです。その流れは途絶えることなく命を守っています。週末に釣りをする予定だったが天気が悪くてやめてしまった。3月1日には魚野川水系の渓流釣りが解禁になってしまう。

信濃川を空から見下ろして飛ぶ白鳥ですが、その優雅な姿で水面に浮いているときの足は、休むことなく水を蹴っています。見えない苦労の上に優雅に映る姿だけが見えています。

楽して良い暮らしができる百姓はいません。貧苦を覚悟して父の後を継ぎましたが、このまま子供に後を継がせたら同じ苦しみも継がせてしまうのではないか…貧苦から脱するために鉄腕ダッシュという番組に手紙を出しても、別の農家を出演させる長岡市の横暴を受けてしまっては…手紙を出したのが2年前。

やる気を出さなければ…跡取りが「継ぎたい」と思える百姓にならなければ中島の百姓が消えてしまう。長岡の野菜の原点は中島の百姓が創ってきたのだから。

百姓料理・今年の種が届く

一昨日夜に家族でカニを食べましたが、我家ではすぐには殻を捨てません。

カニ1匹分の殻に丼2杯のお湯を入れて沸騰させます。

中身を食べた後のカニ殻にお湯を注いで残った身や旨い成分を煮出して、ラーメンスープにしたり、白菜やネギを入れて味噌味にして番屋汁にしてとことん楽しむのです。家族だから食べることができる出汁スープです。他人は確実に嫌がります。

鮭よりも鱒が好きなので1匹物の塩鱒を買っておろしました。

鮭や鱒をさばいた後の頭や骨の部分は、水に浸けて塩抜き後に圧力鍋で軟らかくしてから野菜と一緒に鍋の具にします。川釣師である俺にはヤマメのような鱒の繊細な肉質が好きです。

春播き野菜の種が届きました。とりあえずの種なので必要に応じて品目と量を追加します。

昨年の天候と野菜の値段を参考にして今年の播種品目と量を地元の種屋さんとジックリ相談して決めました。大正7年発行の全国優良種苗店目録に名前が載っている藤田種苗店に頼みました。長岡市の種屋で播種品目を相談しながら注文できる唯一の種屋になってしまいました。歴史と経験があり良し悪しをハッキリ言ってくれる種屋が身近にあることは百姓にとって有難いことです。

本格始動前に寺泊で息抜き

雨で融雪が早まっています。育苗ハウスのビニールを張る前に海へ行ってカニを食べたかったので昨日午後2時過ぎに行ってきました。

水曜日定休の店があるので閑散としていました。

寺泊の魚のアメ横道りを新潟方面に向かって見た画像です。道路の向こうは弥彦山です。弥彦という名称の由来はネットで調べると出てくると思います。長岡市出身の漫画家が週間ジャンプに連載していた「るろうに剣心」の弥彦の名前は弥彦山からのようです。蒼紫というキャラもありますが悠久山の蒼紫神社からでしょう。

柏崎方面に向かって撮影

記憶違いでなければ、弥彦山には幕末に長州の吉田松陰が来たという石碑があったはずです。長岡の米百俵に関連する小林虎三郎とともに「佐久間象山門下の2子虎」といわれ「国を任すなら寅二郎。人を任すなら寅三郎。」と象山に言われたそうです。詳細な事実は知りませんが信念を持って真っ正直に生きる人は、昔も今も存命中に認めてくれるのは専門家だけのようで、生前は苦労続きのようです。

自身の実績に自信があるからこそ、投獄され斬首されても自説を曲げなかった吉田松陰。病で体が思うようにならなかったが未来に賭けた小林虎三郎。

寺泊の魚とカニを見ると食べることばかり考えてしまいますが、満腹になってボーっと弥彦山を眺めると、毎回、吉田松陰とその生きた時代の人々を考えてしまいます。

寺泊のカニは、1箱1000円~2000円で5匹~7匹はいっているのを買うのが通です。帰宅して家族みんなでカニを食べ、カニの殻を鍋に集めてお湯を入れてグツグツ煮て、ラーメンの出汁に使うのです。長岡~寺泊の途中で「フキノトウ」を見つけて採るのも、この時期の楽しみです。6代目が元気だった頃からの習慣である「寺泊行」の後には本格的に農作業が始まるのです。

信濃川河川敷の雪消え

昨日、長岡市の山間部である蓬平温泉に行ってきましたが、屋根の積雪は相当な量でした。長岡市中心部では屋根に雪はありません。河川敷の積雪量が気になったので本日午前中に様子を見に行きました。

中島地区信濃川右岸の土手
右岸ソフトボールグラウンドの積雪は22センチ

土と雪の間に数センチの空間ができていたらしく、グラウンドに足を入れた途端に「サーッ」という不気味な音が15秒くらいの時間、グラウンド全体を包んだ。何が起きたのか不気味であった。それは空間に雪が落ち込む音であった。貴重な体験をした。

河川敷畑

昨年、地元小学校の3年生とチャレンジルームの児童たちが中島巾着ナスと梨ナスを植えた畝。支柱とナスの枝が出ている。

畑の積雪は30センチ

地面の土質などによって融雪具合が違う。もちろん日当たり加減による日照時間などにもよって違います。

狸の足跡。大小3種ありました。

ネズミは雪でも餌を求めて地下を荒らし回ってます。

隕石の衝突で恐竜が滅びて極度に寒冷地化した地球で生き残った哺乳類の先祖は、いつもネズミのような絵で描かれていますが、この雪穴につながる土中のトンネルを見ると生存能力の高さと生命力を感じ、納得です。

畑への入り口には15センチ~の積雪
川原へ降りて左岸を眺める

冬期間中に左岸の低水位護岸の河畔林は伐採されてしまいました。伐っても伐っても復活する回復力が、この大河にはあります。自然と共存し生かすことが川に生かされてきた長岡人の役目です。グラウンドや公園に集まるのは休日だけ。普段人が歩く場所は自然のままの場所です。

雪代が少し混じっていますが透明度が上がって綺麗な季節です。

寒バヤを釣りたくなったので今週末あたりに釣竿を出そうと思います。

流れ着いた流木と葦

昔の人は流木を拾い集めて煮炊きや暖房の薪にしました。炎が柔らかく何時までもトロトロヨロヨロ燃えるので越後の人々はその炎を「よろ火」と言っていました。「夜火」が訛ったのかも知れません。

雪の一部消えた土手の芝生でムクドリの一団が餌を探していた。

我々、信濃川の川百姓はこの時期になると心が自然と弾んできます。

百姓衆の湯治

越後長岡の湯処であり商売繁盛の神様が祀られている蓬平温泉。中島農家組合総員4名で日帰りの湯治に行きました。蓬平といえば高龍(こうりゅう)神社への参拝ついでに温泉に浸かり日頃の疲れを癒すコースですが、今回は寒さと時間の都合で日帰りで昼食と酒と温泉でした。酒が苦手な俺は食べる専門。

温泉宿は3軒ありますが、もっとも高い場所であり神社に一番近い「福引屋」さんにしました。温泉の質は3軒中PH値が最も高く浴槽に体を入れると体がスベスベホカホカになっていくのがわかりました。

体と心を癒すのも仕事のひとつと考えるようにしないと仕事は長続きしません。

実は女将は高校時代の先輩。昔と変わらず元気でニコニコ、35年振りに会うことができて懐かしかったです。

百姓は外仕事が主で体を酷使します。齢を重ねるごとに温泉湯治の効果を感じるようになってきました。費用と時間の都合で滞在型の湯治をすることはできませんが、仲間で温泉に浸ってから美味しい料理と酒を囲んで一年の疲れを癒す一日が必要なのだということもこの齢になって理解できるようになりました。知り合いのいる温泉で笑顔で迎えてもらって笑顔で送られると「無理せずまた頑張ろう」という気になります。

湯船から流れ出る温泉を見て、湯船から溢れて外に廃棄される温泉の温度を利用して施設園芸で野菜をつくれば面白いだろうなぁと考えてしまうのは百姓のサガです。

さつま芋の出荷

サツマイモの出荷が続いてます。我家の子供が幼い頃、サツマイモが大好きなので6代目が孫のために地元の藤田種苗店に大量に苗を注文した年がありました。ベニアズマ・金時の2種類でした。作業が混んでいたために例年より遅い定植期の5月末に定植してその年は降水量が少なかったので芋は大きくなりませんでしたが、それまでにない糖度になりました。

寒冷地である新潟県で熱帯植物である大量のサツマイモを冬季まで保存販売することは不可能とされていた頃です。もちろん専用施設があれば話は別ですが、その時代に個人農家が専用施設を保有していることはありません。

 

誰もやらないことをしなければ野菜専業の百姓は生業として残れない…と考えて4年間試行錯誤して安い保存方法を考えました。毎日夜中2時と朝7時に起きて薪ストーブに薪をくべた年もありました。そんなことを繰り返しているうちに、スーパーに出荷している知人の農家に「どんな方法でサツマイモを保存しているのか教えて欲しい」と何回も質問されるようになりましたが「自分で何年も苦労して考えたことなので勘弁してください」と教えることは断り続けています。

皆さん農家であっても専門は稲作なので、野菜の性質と保存について自身で考えることは無いようでした。今では一般的に流通している安納芋ですが10年くらい前は、苗はおろか生芋や種芋すら入手できませんでしたので、種子島から生芋を仕入れて苗を育て栽培しましたが「安納芋」の認知度が無く、皮色が薄いので見た目が劣り販売に苦労しました。

べにはるか・べにまさり、などが認知されなかった頃、新品種として試験栽培され、一部農家が販売していた生芋を県外でなんとか入手して栽培して農協主催の農業祭りでポップを立てて安く並べましたが、ベニアズマ・金時に比べて半分にも満たない販売量でした。農協職員に「これからは、安納芋とベニハルカが主軸になるよ」と説明して売れ残りのサツマイモを渡してから10年近く経ちました。現在では、べにはるか・安納芋は一番売れるようになりました。

サツマイモの自家苗を売ってほしいと、種屋に苗を売ったこともありましたが1本15円~20円の売値では苦労して種芋を探し出した当時を思い出すと納得できず、翌年からは苗販売はやめました。

本当に良い野菜の種や苗を手に入れるには、自分の足で稼ぐことです。我家のサツマイモはすべて自家採種自家育苗で10年が経過しています。毎年の選抜は経験が必要です。種も苗も仕入れて育てるのは単なる農家でしかありません。我家は江戸時代から続く嘘偽りの無い歴史を持つ野菜専門の百姓なのです。農家と違って、百姓とは種を採り育て野菜を売り、それを代々繰り返して受け継ぎ確たる伝統をつくり守っている者をいうと思うのです。

臺菜・体菜という漢字について

中島菜という伝統野菜がある。俺の住む地区に古くから伝わる菜葉である。この中島菜が山形の米沢に伝わったというが、その文書(もんじょ)を探している。

中島菜についての詳細を知る百姓はおそらく中島地区に数人いるかどうかであろう。中島菜と体菜の違いは株元の茎の太さで見分けるのが一番のようである。この中島菜をブランド協会は「長岡菜」として改名してしまっている。名前を変えてしまっては伝統として語ることはできまい。長岡巾着の改名と同様の恥をさらしている。

名前から伝統を探り、歴史と性質を語れてこそ伝統野菜なのである。

「体菜」「臺菜」はどちらも「たいな」と読める。「臺」とは「とう」とも読めるので「とうな」とも読める。種の袋に漢字で「臺菜」とだけ書かれて遠くの地方に伝わったとしたら「とうな」として伝わるか「たいな」として伝わるか…どちらであろうか。中島菜は新潟に伝わり女池菜になったとして間違いない…と中島の先人は言い切るがどうなのだろうか。名前を変えてしまうのは簡単であるが、名前を変えてしまうと歴史や種の移動経路がそこで途絶えてしまうのである。地元の歴史家であり校長先生まで勤めた今井雄介先生は「地名でも野菜の名前でも名前を変えてしまうのは歴史を変えて途絶えさせてしまうことで、歴史を馬鹿にしていることになる。絶対にしてはならんことだ。」と平成27年の夏に電話で言っておられた。

新潟の伝統野菜の歴史を探るのに限界の時代が来ている。新潟の在来種を調べて日本全国に紹介してくださった瀬古龍雄さんも既に鬼籍に入られてしまった。長岡の野菜の歴史は中島であることは確実であるのに長岡市の人々は全く関心を示さない。むしろ新潟市が中島の百姓と歴史に関心を持ってくれているのである。

新潟市のように専門的な知識を持つ職員が常駐している都市というのは目の付け所が違うのである。

「長岡市には農業の専門知識を有する職員がいない」と前農林部長が2度も言っていたが、この差は歴然である。長岡市はどの都市よりもやることが一歩も二歩も遅れており、後追いばかりしている。

 

冬の2尺玉花火・雪しかまつり

自宅2階から手持ちで撮影したブレブレ画像

花火の打ち上げがあることをスッカリ忘れていました。寒さの中、土手まで行く元気がなかったので自宅2階から手持ち撮影です。提灯のように並ぶ光は某営業所の看板です。

今年からなのか前からなのか知りませんが、今年の長岡市の「雪しかまつり」のラジオ広報では、「雪しか」という名前が屋号である旨の説明が入っていました。食品を保存するための雪山…というのは間違いではありませんが正しいとも言えないようです。元々は養蚕のカイコの卵が孵る時期を調節するための雪山であったのが、様々な用途に使われるようになったのですから。米百俵の故事のある教育都市を宣言しているならラジオ広報の税金分をもう少し上手に教育的にも活用してほしいものです。

来年からでも長岡市らしく「雪にょう・雪にお」まつり、と改名したらと思います。長岡では稲藁を高く積み上げて保管したものを「藁にょう・藁にお」と言っています。言葉の文化を残すのも教育です。

中島地区での雪にょうの場所は、水道町1丁目の場所にありました。この雪にょうを作っていたのは「雪穴組合」という組合組織だったようで、我家の顧客として売掛帳に名前が記載されています。長岡市内には3箇所の雪にょうが作られていたといいます。時代背景と組織(個人・会社)などによって活用方法に違いと変遷があるようです。雪しかの歴史を調べるキッカケは、中島巾着ナスと中島地区の農業の歴史と雪にょうの歴史と関係があるからでした。そして、この説明を詳しく教えてくださったのが今井先生です。