月別アーカイブ: 2017年9月

秋にナスの発芽・雑草万歳!!

毎日夕方の2時間ほどをナス畑の片付け作業にしている。今シーズンは中島巾着は、30メートル畝を11畝、栽培本数は約450本。

今期は夜間温度が低く、不作であった。片付け途中の畑。

梨ナスと中島巾着、どちらが低温に弱いかというと、本当の梨ナス・中島巾着は共に低温に弱く、黒系梨ナスは低温に比較的強い。同じ梨ナスと呼ばれるナスでもこれだけ性質が違うのは元来の出自が違うことが明らかである。

ナスの木の平均高さは120センチと低かった。

雑草の生える圃場は健康である。アニメ「風の谷のナウシカ」で腐海の植物が瘴気(しょうき)を放出しながら大地を浄化していくシーンがあった。現実世界でも植物を含む生物は意味があって存在し、それぞれが何らかの繋がりをもって絶妙な均衡を保って生命を繋ぎ残してきた…と思いたい。除草剤や農薬に弱い体質の俺の言い訳である。

外来植物セイタカアワダチソウは悪として捉えられているが、人間には毒消しの妙薬であるという。畑一面にセイタカアワダチソウが繁茂するとスギナさえも駆逐されてしまう。そしてセイタカアワダチソウ自体も自身のアレロパシー作用で消滅するという。本当に悪草なのか…?これを調べるために2反の畑をアワダチソウだらけにして3年目と6年目になった。6年目の畑は今年、植生変化を来たしてマメ科植物が畑の半分を占めた。昨年収獲したアワダチソウは乾燥させてあるので煎じて飲むつもりである。

中島巾着として収獲するに値しない木を放っていたので、成熟して落下したナスは発芽していた。

イチョウの葉には害虫が一切つかない。我家にもイチョウの木があるので昔から父親は、畑に撒いていた。俺は、イチョウの葉をミキサーでトロトロにして水で濾した液を野菜に散布する。俺独自の忌避剤であるが効果は?である。来年は比較試験をする。

 

今年は熊が里に下りる年?

今年は春から夜間温度が上がらない年でした。そのためにナスの成長は著しく遅く、5月下旬の定植時に一番花が開花していたのに収獲は1ヶ月近く掛かりました。通常は中島巾着3週間、梨ナス2週間で一番実がほどほどに収獲状態になるはずなのですが、異常果や落花という状況がシーズン通して続きました。また、花蜂(クマ蜂→我家の従業員)の飛翔が少ないことも気になりました。

ナスの片付け中に撮影。中島巾着とパセリ。全てのパセリには虫が一切つかなかった。

現代農業を定期購読している妻が、「害虫予防と病気予防に我家でも試してみたい」と、ナスの定植時にパセリ・ネギを株元に一緒に植えてくれたのですが、全ての株に植えたので、同植したものとしないものとの差が分らなかったのでした。

ネギも病気が出なかった。

販売用に栽培したネギにはハモグリバエ・ベト病が発生したが、ナスと同植したネギは、虫も病気も発生しなかった。 昨日夕方、ナスの片付け作業中に右目の下瞼をブト(蚋)に刺されたのか、本日朝起きたら目の下から頬にかけて腫れていた。お岩さんになっていた。プレドニン入りの薬を塗布。昔はブトがいる畑ではなかったのに環境が変化したのだろうか…。

畑わきのクルミ

今年は栗もクルミも大不作です。渓流釣りに行った際に魚野川沿線の地元ルアーマンと話した時に「8月からクマが川岸に下りていた。こんげな年は初めてだ。気をつけたほうがいい。」とのこと。クルミや栗が不作であれば、山のドングリ・トチノミ・山栗も不作なのは間違いない。5.6月の水不足、夜間低温、8月の雨続きなど原因は考えられる。梅も近年ないほどに不作の年でした。

種まきゴンベエの改造

トウ菜(ひゅう菜)の種まきが完了した。種まきには毎年、ゴンベエを使用しているが、土切り・溝きり部分に土が付着したり、サビによって性能低下をして余計な手間が増えているので、土の付着防止に5mm厚のジュラコンをカットしてネジ止めしてある。(10年以上前に改造)精密機器会社の試作を下請けしていたので、樹脂の知識と技術がこんな時に役立つ。

雑草などの残渣が残る畑に使用するディスク。

ステンレス製のデスク版が2枚、回転しながら種の落ちる溝をつけてくれる。ゴンベエに標準装着してある溝きりは三角の筒が、土を押して溝を切るために畑に残渣があると、残渣が引っかかって種が畑に落ちなかったり、種を引っ張ってしまう。オマケに錆びる鉄製である。

亜鉛メッキも15年もすれば錆びてしまう。

錆は土の付着を誘う。この白い板は土の付着を程好く防止してくれる。折り曲げ不能・接着不能の材質なのでネジ止めが条件。ステンレス皿ビス止め。

このように残渣が引っかかってしまう。

種が落下してくる場所に残渣が入り込むと種が畑に落ちることはない。

上記のことに気付かずに作業して、数日後に発芽していないのが判ったときの落胆は書くまでもない。播種期ギリギリにこんなことになったら、もう収獲できません。

ディスク版は錆びないうえに、残渣を土中にめり込ませてくれる。

このディスク版の部品を知ったのは4年前だったろうか…農機具の展示会で発見した。効率の良い作業をするには展示会で各会社の担当者と話すことだと思う。

春のトウ菜(ひゅう菜)畝立て

今年のニンニク作付けは例年の半分にしたので60メートル畝で2畝である。例年は50メートル4畝・1畝5条15cm間隔、1畝の種は約1700個必要になる。6片ニンニクであれば約280玉である。本日午後4時に植え付けが終了。

午後4時30分より、地拵えを終わっている畑で来春収獲のトウ菜の畝立てをした。トラクターが壊れたために畝立て作業は管理機で行い、畝均しはアルミレーキを斜めにして整地する。畝巾1.1メートル畝間45センチとなる。当初はトラクターによる畝成型を予定していたために畝巾90センチ畝間60センチの畝割りをしていたが、管理機で畝立てをしたのでロータリー巾の45センチで畝立てするため、土田家の歴史の中で一番広いトウ菜(ひゅうな)の畝巾となった。

本日6時過ぎ、畝立て完了後。土手寄りの畝。

画像の白い球体は虫・水蒸気・塵がストロボに反射したもの。心霊写真として通用する。クルミの木の下で撮影したので小さな虫が多数飛んでいた。

川寄りの畝。虫は飛んでいなかった。

播種は明日。ゴンベエを使用する。雑草の根などが残っているので円盤が回転しながら播種溝を切っていくアタッチメントに変えて行う予定。例年は3条播きだが今期は4条にする。この菜の花は幼稚園児達が毎年楽しみにしている。

地拵え(じごしらえ)という昔からの言葉がある。畑に肥料などを撒いて耕し畝立てをする直前までの耕運作業のことである。

ニンニク植え・トラクターがまた壊れた

長岡でのニンニク植え時期は9月15日前後が標準的だが、今年は春から2台のトラクターの修理に追われて作付けが何もかも遅れていた。今日、20馬力のミツビシトラクターが作業を始めて5分しないうちに異音がしてエンジン停止した。メーターも異常なしなのに…。なんとしても今日中にニンニクの畝を仕上げねばならない。そういえば、3日前にトラクターに乗っていると何ともおかしな匂いがしていた。初めて撒いてみた肥料の匂いかと思っていたが、噴出していた不凍液の匂いだったことに後で気付いた。

ラジエーター下部に滴る不凍液

ボンネットを開けて匂いを嗅いでみる。オイルや焦げた匂いはしない。エンジン周りを覗き込むと、ラジエーターとエンジンブロックの間が濡れている。ウォーターポンプとサーモスタット周辺も僅かに濡れている気がする。家から不凍液を持ってきてラジエーターに入れると2リットル近く入るではないか。空っぽ状態である。エンジンが掛かったので、畑から道路に移動するとラジエーター下のあたりから不凍液が噴出すようにエンジンブロックに当たっていた。数万円コースの修理確定です。どうせ交換なら自分で外して状態確認をしてみようと考えている。

ニンニクの畝立て作業はトラクターでする予定だったが、耕運機ですることに。

今朝、知人から譲ってもらったモミガラを播いた後に20馬力トラクターが壊れたので、急遽13馬力のヤンマートラクターをトラックに積んで移動して耕した。後に耕運機で畝立て。2人でマルチ張りと種植えを1畝完了させる。周囲は真っ暗。日没頃にドクターヘリが整備試験飛行をしていた。鳥達が驚いて右往左往して飛び回っていた。通常のヘリコプターよりも静かな飛行音であるが、鳥は驚くようだ…しかし、カラスはビクともしていない。慣れたようである…頭が良いから慣れるのも早い。

大正14年頃のナスの呼び方

長岡市で唯一の百姓の売り掛け帳であるはず。ナスの呼び方。

大正14年、8月の売り掛け帳である。丸に漢数字の十が書かれているのは「まるじゅう商店」のロゴ。祖父、眞十郎は野菜百姓だけでは生きて行けなかったので苗や酒・味醂・野菜・漬物・味噌・農業用品などヨロズ屋的な店を開いて兼業百姓であった。この時代には梨ナスは導入されていない。大・中・小のナスで区別していた。二冊の売り掛け帳が存在するが、通しで見て、品種明記はない。大ナスは中島巾着であろう(丸ナスと呼称するようになったのは後年からか…)。小ナス・中ナスというのは、中手(中生・なかて)と云われる長岡では、江戸時代から栽培されていたナスのことであるのは確実。なかてナスは現在も中島巾着や長岡巾着ナスを栽培していると1本の木すべてに中長(卵形)のナスが成るが、これが江戸時代のナスであると父親や中島の先輩百姓から教わった。 味噌漬ナスは日付から生ナスの可能性も否めないが、我家では自家製味噌を製造販売していたので長期保存の中島巾着の味噌漬ナスである可能性が高い。なお、この味噌樽と豆挽き(煮・蒸大豆を磨り潰す機械)は倉庫に現存している。

本日の作業は梨ナス収獲・トウ菜の畝割り。畝割りとは畝巾と畝間の線引き作業のこと。

釣り用リールに水引糸を巻く。一定間隔で直線畝を立てるために糸を張り、糸の上を歩いて足跡の上をトラクターで畝立てする。

泥と汗の結晶・うたうたい富所正一さん

長岡農業高校の大先輩に、見附市の冨所正一(故人)がおられる。もう40年も前に亡くなられた見附弁丸出しの作詞作曲する「うたうたい」である。当時流行のフォークシンガーではない。富所さんが他界された当時の俺は14歳で中学2年生3学期頃、高校進学で一番重要な時期であった。県内唯一のデザイン科のある高田工業高校へ行きたかったが親に猛反対されていた。長岡から70キロも離れた有数の豪雪地である。あまりに貧しくて銀行や農協に借金すらさせてもらえない野菜農家の我家には、俺を高田に下宿させてやるゆとりなどなかった。 父母が、日の出前から夜12時近くまで野菜の収穫生産し、長岡中央青果市場へ1.5トントラックに目一杯の野菜を選別箱詰め出荷しても一日、千円になるかならないかの日々が続き、それが数年にも渡っていた。キュウリ・ナスなど5キロ詰1箱が10円20円だったのだ。父母の夏の睡眠時間は4時間なかったのである。今更ながら父母はよくやっていたと思う。

何十人もの人に貸し出した。「どうせ行き着くところは(死)同じだろうが…」歌詞は可笑しくも辛らつで意味が深い

長岡では野菜の価値が低かったので父親を含む中島の百姓は野菜の価値が高い高田の青果市場へ出荷するため毎日夜7時頃にトラックで通っていた。片道約2時間である。俺も中学2年・3年の夏休みはトラックに同乗した。そんな辛く汚く生活すら儘ならない野菜専業の百姓をする父母を見ていたので「俺は絶対に百姓にならない。家も継がない。」と決めていた。富所正一さんの訃報を地元新聞が記事にしており、追悼のレコードが枚数限定で注文販売されるというのが中学3年の春。残っていたお年玉でレコードを入手した。「お前(おめぇ)まだ春らかや」という冨所さんの一番有名な曲がタイトルである。 俺が中学1年の時にNHKFMリクエストアワーで良く流れていた歌である。地元のアマチュアフォークシンガーを集めて特集された番組にもちょくちょく出演していたのを聴いていたので、面白いコメディーソングだと思っていた。

レコードが届き、同梱されていた薄黄色の思い出話をまとめた冊子と、歌詞カードの裏面にアップで印刷された富所さんの顔写真を見ながら何度も繰り返してレコードを聴いた。志望校を断念させられたので受験勉強を一切することもなく、レコードを聴きながらスケッチブックに絵を描き続けた。百姓の跡取りということの劣等感・貧しいということの劣等感・人より劣っているという劣等感を歌にしていることがレコードを聴くうちに解った。俺と同じだった。自身の鬱屈した叫びを誰にも真似できない感性で歌に昇華した結果であったのだろう。恵まれた環境の人には理解できないものかもしれない。

何度も繰り返して読んだので色褪せ汚れている。

三男なのに後を継がされ苦労のうえに苦労を背負い続けた親父は「お前(おめぇ)は百姓の長男のがぁすけ、農業高校へ行け!高田なん、やる金なんかねぇ!」と俺に言い続けていた。レコードを聴いて「俺と同じ立場と想いをして生きていた人が長岡農業高校に通っていた。」と思うようになった。俺の中の劣等感が開き直りに変わった。受験勉強は一切やらなかった。滑り止めの二次募集も応募しなかったがそれは「高校に行かない子供の親は世間体が悪い」という親への反発と、農高へ行くしか道が与えてもらえなかった百姓の倅として生まれた俺の唯一の反抗だった。そして俺は冨所さんの10年後輩の農高生となった。収録曲『農業高校』の歌詞に出てくる「お前らは日本を背負って立つ大事な奴隷」と言ったアベ先生に授業を受けて同じことを言われた。『私の下にだれかいる』の歌詞「海を渡り(ブラジル)大きなことをするのでしょうか(大農園経営)」の話をするミサワ先生からも授業を受けたし、一年生時の副担だった。

収録曲に「通信簿・いなかもの・農業高校・お前まだ春らかや」など12曲がある。俺の父親が病で倒れて介護が必要になった平成21年から「泥と汗の結晶」という歌がいつも頭に流れている。『この泥はのぉ、昔の人がのぉ、汗水流してのぉ、働いてのぉ、その泥をお前の顔に塗りつけても恥ずかしいかのぉ、恥ずかしくねぇ人間にならなきゃぁいけねぇよ』という一節である。今、俺は破れて汚れた服を着て作業しているし普段着もほぼ同じである。継ぎはぎだらけであるがまだ着れる。土がこびりつき落ちないのでそのまま市役所にも農協の窓口にも行く。父親や富所さんと同じである。昔の人が守ってきたものを伝え残していくには貧しいうえに忙しすぎる。見た目や肩書きなど気にしている余地はない。劣等感と貧しさに耐えられる意地と開き直りは、他人にどう見られようと云われようと変えようがないのだ。

歌詞の意味を知り「同じだ」と感じたのは、百姓の倅だから。

ドラマ、大草原の小さな家でマイケルランドン演ずるお父さんが、同窓会で服のことを揶揄される場面がある。「最初はよそ行きだが古くなったら。次は仕事着に変わる。」最後は雑巾になるさ。とのセリフだったと記憶している。百姓は世界中、昔も今も同じなのかもしれない。話し上手で調子が良く、良い思いをしている百姓ばかりでない。金の匂いに敏感で宣伝上手な業者や、弱い者には目も向けない行政に疎まれる百姓がここにいる。歌は作れないが本物の伝統歴史を伝えることはできる。

お天道様に手を合わせて拝む

朝日に輝く朝露

祖母が他界して30年になる。88歳手前まで河川敷の畑に四つん這いになって草取りをしていました。手足は勿論、かすりの上着やモンペの膝は土だらけ。父母と一緒に炎天下の中で作業していました。 誰よりも良い野菜を作って出荷してもタダ同然のような市場出荷価格に愚痴も洩らさずに黙々と草取りを続ける姿を思い出すことがある。 炊飯釜を水道水だけで洗いながら、こびり付いた米粒が釜底に溜まると、それを、ひび割れたシワだらけで硬くなった手で大事そうにすくって食べていた。食べ物を大切に、そして決して無駄にする人ではなかった。

祖母は若い頃に、信濃川河川敷の畑でツツガムシに刺されて、風土病ツツガムシ病になって高熱で死に掛けた。50パーセントの致死率であるが幸い助かった。しかし、高熱により脳に障害が残り、季節の変わり目や急激な気圧の変化があると後遺症として異常行動をきたして家族は大変な思いをしてきた。その祖母が朝仕事で「お天道様が見てらっしゃる。今日も頼みますれ」と畑で、昇る朝日を見て手を合わせていたのを1度だけ見たことがある。普段はあんなことをする人ではないが、その姿は絵画、ミレーの祈りを連想させた。 百姓は自然の一部であり、自然の中で生かされていることを感じる時が多々ある。朝日に輝く畑一面の朝露を見ることのできる至福の時に昔を思い出した。俺にとっての神様はお天道様なのだ。

昨日より中島巾着の畑を片付けはじめた。収獲は2~3日に一回、からしナス漬け用のみ。

試験的なナスの畝

画像は今年6月の梨ナス(水茄系)の畝。水茄が先祖である梨ナスにとって夏の渇水期は品質が落ちる時期。潅水設備のない河川敷で水を効率良く流すには畝の中心部を凹ますのが手っ取り早い。

雨続きには病気の元になる畝形状。

トラクターの成型機巾1.1メートルの畝を作り、畝の真ん中を耕運機でロータリー正転後進してロータリー巾50センチ、深さ5~10センチほどの溝を掘って黒マルチを張った。苗を植えた後に、水が溜まる箇所に小さな穴をあけた。渇水期にはトラックで運んだ井戸水を畝の端から流す。 以前は運搬車に水タンクを積んで、移動しながら潅水していた。先代は生前、高畝にしなかったのでそれに倣って畝高15センチにしてみた。本年は十全系ナス(本当の梨ナス含む)と中島巾着と泉州水茄(種苗店で購入のF1)に褐紋病が多く発生したが、黒系梨ナスは被害が少なかった。中島巾着以外は同じ畑で栽培しており、同じ畝に植えた十全と黒系では見た目の差が歴然としていた。十全系と泉州水茄は近い性質を持つ現われであろうか。すると黒系梨ナスは泉州水茄とどのように違っているのだろうか。大阪でも今期は路地栽培で褐紋病が多発したという話を聞いている。

小さく植えてシッカリ根を張らせる。

同じ水茄の系統である梨ナスであるが、販売している種屋で梨ナスの性質が違うのである。この面白さはシーズン通して何年も栽培比較するから解る面白さなのである。長岡で最初に黒系梨ナスの種を販売したといわれている高橋種苗店(随分前に閉店)の梨ナスを今期100本程度栽培したが(土田は初めてこの種を入手)、交雑が激しく進んでおり、梨ナスとして販売するには無理であった。忙しい身の上の俺に10~20本程度の栽培では性質観察はできないと考える。

梨ナスというには無理がある。

画像の黒系梨ナスは様々な品種が入り混じった状態であり、丸ナスや巾着(長岡巾着なのか中島巾着なのか長岡ナスいずれが交雑したのかは不明)が交雑しているので、初期~終盤まで形が安定せず、トゲも大きく皮は厚く硬い。真円形も多々発生した。梨ナス特有の形も発生した。この種からのナスと栽培現場は大阪の生産者さんに見せただけなので、来期は新潟県の研究者レベル複数人に見てもらうべく数十本を栽培してみようと考えている。

本物を知る人

久々に更新します。我家を含めて、中島地区の専業百姓は3軒です。もう一軒、代々野菜百姓をなさっておられる方がおられますが、定年帰農で自家消費生産の水田さんです。90歳以上になるまで現役で自家採種して頑張っておられたお父さんが他界されてからの帰農でした。

中島の百姓の基本は自家採種。大正時代には中島の百姓が組織した「種苗組合」も存在しており、市内の種屋が種を仕入れに来ていました。土田家に現存する大正・昭和の売り掛け帳は、長岡市唯一の野菜の歴史を物語る宝であると思う。その中には老舗の有名料亭・有名料理屋の名前が連なっている。中島巾着の中でも「重兵衛なす」と長岡大手通りの「五十の市(ごとおのいち)」で有名を馳せていた事実がある。

現代に於いて、「巾着ナス」とか「長岡巾着ナス」と呼ばれているナスの殆どは、丸味が強くて実が柔らかく扁平にも巾着にすらならない性質である。長岡野菜ブランド協会が中島巾着を元に丸いものを選抜していった結果である。もう元には戻らないほどに性質変化し、伝統とは遠くはなれた伝統破壊した巾着にならない巾着ナスの末路である。種屋が県外の採種業者に種取りさせているのではそれも当然である。

食べ比べてもらえば判るはずであるが、「本物の中島巾着」を知る料理人は少ない。「長岡巾着ナスを伝統野菜だ」と言い張って憚らない30代40代の創作料理人や仲買人が巾を利かせているのだから情けない。

今年7月中旬、「土田さんの茄は販売しているのですか?売っていただけるのであれば畑を見させてもらえませんか?」と女性から電話がありました。シェフ(料理人)と2人で来るということでした。中島巾着と梨ナスを畑で説明して中島巾着と長岡巾着ナスの違い・種屋の梨ナスと自家採種で作り続けてきた梨ナス2系統の違いを説明して、「食べ比べれば判ります」と言って畑のナスを持って帰ってもらいました。後日、シェフから電話で「今まで長岡の業者から買っていた長岡巾着ナスとは全然違いました。中島巾着と本当の梨ナスを送ってください。」とのことでした。野菜の味とは微妙なものですが、その違いを判断できる調理人はなかなかいません。本物を見分ける能力の高い一流のシェフと出会いました。

我家の中島巾着は、長岡で初めてこのナスを栽培した小川文四郎氏の子供さんが購入し続けていた。そして中島巾着の名前を全国に紹介した瀬古龍雄氏が唯一認めた本物の中島巾着である。